2014.9.13 湊公民館郷土学習 館外研修
~清水町から朝日町そして織田町方面編~

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※ ここでの説明文は、当日配布された資料(みなと塾 田島氏作成)から転記したものです。


 8:35 公民館を出発

 8:50~ 9:10 結城晴朝舘跡  福井県福井市片粕町64−8(旧清水町)

結城晴朝

天文3年8月11日(1534)~慶長19年7月20日(1614)
 結城家は鎌倉時代頼朝の頃から続く関東の名門で、晴朝は結城家17代当主、結城城主、石高10万石。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して所領を安堵される。此の時、秀吉に願い出て、秀吉が養子としていた徳川家康の次男の秀康に養女の鶴姫を嫁がせて養嗣子とした。関ヶ原の戦いの後、慶長9年(1604)秀康が越前国へ転封となると晴朝もこれに従った。
 秀康の五男直基を養育して結城家を継承せしめた。直基は後に松平姓に復したが、結城家の祭祀は前橋松平家が継承した。
 晴朝と秀康の生母於万の方、正室鶴姫等は結城から越前入りしたが、北ノ庄城が完成するまでの間片粕に館を築きここに住んだ。晴朝は片粕の村前と村後に長大な水除堤を築き、三留から志津川の水を取り入れ、竹生を通って片粕までの用水路をつくり、平時には農耕に、戦時には防御用にしたという。
 また、養子とした直基を片粕に引き取って養育したという。
 その後、北ノ庄城が完成すると、晴朝の屋敷も整えられ、そこに移り住んだという。晴朝の屋敷は北ノ庄城下の漆ケ淵にあった。城内への門は「漆門」と呼ばれていたが、「はるとももん」がなまって「鳩門」と呼ばれるようになったという。
 また、晴朝には5千石、生母長松院には3千石、正室鶴姫には千五百石が与えられた。
 片粕には、晴朝時代の頃を思わせる屋号が残っている。「しらしき」(城や指揮)、「ばんば」(馬場)、「ゆりのち」(弓の家)等はその名残と思われる。

天下村と徳川吉宗

 貞享の大法により、福井藩六八万石が二五万石に減封され、没収した領地は幕府領となっていた。
 大法から十一年後の元禄十年(1697)、紀州江戸藩邸を訪れた五代将軍綱吉から、紀州藩主光貞の四男頼方(のちの吉宗)に、越前国丹生郡の幕府領三万石があたえられた。丹生郡十三ケ村の中に、上天下、下天下村がある。
 宝永二年(1705)、兄頼職が紀州藩主となった時、頼職領内、一万石を兼領した。ところが、同年五月に長兄綱教が亡くなり、跡を継いだ頼職も9月に急死、その一カ月前の8月には父光貞も亡くなっていたので、頼方に藩主の座が回ってきた。
 頼方はこの年12月に十三位、左近衛権中将の叙任を受け、将軍綱吉から吉の一字をもらい、吉宗と改めた。
 このような時、二度目の幸運が訪れた。正徳二年、六代将軍家宣が死に、その子家継が四歳で七代将軍となったが、正徳六年、八歳で死亡した。
 御三家筆頭の尾張家は正統が絶えていたので、第二位の紀州家の吉宗に将軍職がまわってきた。享保元年(1716)、吉宗は八代将軍となった。
 吉宗は「天下村」が自分の領地にあったことを誇りにしていたことが窺われる。
 松平春嶽も「真雪草子」の中で次のように書いている。

    福井より西の方に天下村という村あり。テンカ村とはいわずテガ村という。有徳公未だ紀州家の御次男に在らせられ候時、此時の将軍の思し召しにて、越前に於いて天下村を御領地に進ぜられたり。後有徳公将軍家に成らせられて上意には、我は紀州にありし時、越前の天下村を領したり。全く此将軍となるの吉兆なりと仰せられた候よし
 天下村の庄屋石川庄兵衛家の由緒書には、当時の事が記されている。
 また正徳年中、天下村が公領となった時には、江戸常盤橋御門御普請のため多額の献金もしている。

【参考】
結城晴朝館跡(歴史の見える風景) http://www.fcci.or.jp/fsho/0802/17rekishi.pdf
越前・結城晴朝館(城郭放浪記) http://www.hb.pei.jp/shiro/echizen/yukiharutomo-yakata/
【Google Map】https://www.google.co.jp/maps/@36.0451136,136.1677526,3a,75y,283.34h,88.81t/data=!3m4!1e1!3m2!1skMCVyACFvH0eQxg6MKXJkQ!2e0

 9:30~10:07 賀茂神社  福井県福井市加茂町 7-1

 養老元年(717)創建の延喜式神名帳に記載のある式内社。由緒書には奈良時代の初めに「雷社」(賀茂神社)を祭ったと書かれている。
 今日との賀茂神社と深いつながりがあり、奈良時代の少し前から京都の加茂氏の一族がこの大森付近に住みつき、氏神として祭っていたといわれている。
 奈良、平安にかけてこの地区は「志津庄」といわれ、京都下賀茂神社の荘園となっていた。摂社、末社併せて八社がある。

朱塗りの大鳥居

 敦賀の気比神宮の大鳥居につぐ、県内二番目の大きさ。
 扁額 賀茂下上大明神 ……江戸時代中期の伊藤坦庵の筆、巾三尺、高さ六尺

拝殿の扁額

 元禄年間の火災で焼失するまでは、越前の国司として赴任していた天慶年間に格別鴨社に崇敬し「雷神社」と命名し額を寄進したとされる。

睦月神事

 四年に一度奉納される神事芸能で、天下泰平、国家安穏、五穀豊穣を神に祈願するもの。
 約八百年前、鎌倉時代から引き継がれていたと伝えられる。昭和53年に国の重要無形民俗文化財に指定された。
 かっては、志津庄の賀茂神社の氏子村八ケ村が二村づつ組んで、回り番で毎年行われてきたが、多額の費用や多くの子どもの参加を必要とすることから、現在は大森地区だけが、四年に一度行っている。

【参考】
福井市大森町 賀茂神社 http://www.kamojinja.jp/
賀茂神社 [加茂町]:福井市 http://www.city.fukui.lg.jp/kankou/bunka/sinkou/kamojinjya.html
賀茂神社 http://www.geocities.jp/engisiki/echizen/bun/ech310211-02.html

10:16~10:27 護良親王の唐塔  福井県福井市山内町

 元弘元年(1332)2月から4月1日まで御滞留されていて、ここから賀茂神社を遥拝されたという。
 御所垣内と呼ばれていた。
 親王の錦の御旗を形どり、日月の形に切り抜かれた唐塔があり、側面に「元弘二年四月一日」と記されている。

【参考】
護良親王(もりよししんのう)と御所垣内(ごしょがいち)[山内町]:福井市 http://www.city.fukui.lg.jp/kankou/bunka/sinkou/morinagashinnou.html
護良親王:ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B

10:34~11:04 上野山 乗泉寺  福井県福井市笹谷町47-14

上野山 乗泉寺  浄土真宗東本願寺末寺

開祖 了珍上人

 当寺は嘉吉2年(1442)、北国兵乱の兵火によって焼失して中絶し、村支配となっていた。
 天文23年(1555)秋、嵯峨天皇の子孫で渡部了珍という人が、武蔵国から石山本願寺に出仕していたが、志津庄土井村あたりに逃れ元乗泉寺屋敷跡に住んでいたので、渡部彦衛門というう有力者が現在の場所に寺屋敷を造り、乗泉寺を再興し了珍を住職として迎えた。
 天正3年(1576)、信長の越前一向一揆攻めには、一揆方として今庄燧城に籠り信長軍と戦っている。
 乗泉寺由緒によれば、難を逃れ再び石山に上り、石山本願寺の旗頭として出仕しこの間本能寺の変等もあり、顕如から「上野山乗泉寺」の寺号を免許されたと云われている。
 百ケ寺騒動等苦難の時もあったが、九代祐也上人の時初めて東派に帰依した。紀州頼方が丹生三万石の領主となったのは此の時である。

略系図書

 抑当山之先祖渡部之了珍と申ハ嵯峨天皇の子孫にして嶋の姓渡部与兵衛尉入道了珍也。本国武蔵国住居仕り源氏の大将頼朝公御幕下にて御座候、然る処右了珍之代二御本廟之十一代顕如上人と云々。

紀州頼方

 元禄10年(1697)14才の時に越前国丹生郡に3万石が与えられ、従四位下、左近衛権少将に任じられた。
 頼方の家臣団は、早速役人を越前に派遣して陣屋の設置場所を下検分した。初めは三留村を候補地としていたが、敷地として適当な場所がなかったので、下糸生村葛野に原野があったここに陣屋を決定した。しかし当時葛野には人家が少なく、領主の館として笹谷村渡部与右衛門の屋敷「北屋敷」に仮館を修理して、ここに滞在願うことになった。
 「紀州表より御役人御出張これあり。俄かに村中へ大制札等相建てられ、当時渡部与右衛門地内字北屋敷と申す所へ御仮館御修理の上同年7月入らせられ………」とかかれている。
北屋敷に仮住まいの時頼方は14才で、乗泉寺の祐也上人は16才であったといい、年齢も近く大いに交流があったといわれている。

【参考】
腹帯(はらおび)地蔵菩薩坐像(ざぞう) [笹谷(ささだに)町、腹帯地蔵堂]:福井市 http://www.city.fukui.lg.jp/kankou/bunka/sinkou/haraobijizou.html

11:15~12:13 越知山 大谷寺(おおたんじ)  福井県丹生郡越前町大谷寺42-4-1

 創建年代は不明。越知山三所大権現の別当寺として、金毘羅山のふもとに建立されたとみられる。
 白山中宮平泉寺とともに、山岳信仰(白山修験)の寺院であった。 明治初年(1868)の神仏分離によって、越知神社と大谷寺に分離された。
      山 号    越知山
      宗 派    天台宗
      本 尊    十一面観音    阿弥陀如来    聖観音
      重要文化財  石造り九重塔  元亨3年(1323)建立
      ○ 時の為政者からも保護され、越前松平家では藩主代替わりの時、必ず参詣があったという。

泰澄大師

 奈良時代の修験道の僧、白山信仰の僧。越前国麻生津の生まれとされる。
 14才の時夢のお告げで越知山に登り修業をつむ。白山を開山したのをはじめ、越知山、文殊山、吉野ケ岳の越前五山を開き、「越の大徳」といわれる。
      白鳳11年  682  越前国、麻生津にうまれる。
                  父    三神 安角(澄)    麻生津の渡守
                  母    伊野姫         勝山、伊野の生まれ、猪野に墓所がある(定説)。母については諸説がある。
                  11才の時、夢のお告げにより、越知山に登り、苦行難行の末、仏の教えを悟る。
                  その名声は都まで届き、調停より鎮護国家法師に任じられる。
      和銅 5年  712  「飛鉢伝承」  出羽乃官庫税租稲分  舟船頭 神部浄定
      養老 元年  717   36才  白山に弟子二人と登頂し、白山を開山する。  神仏習合
      養老 7年  722   41才  元正天皇のご病気を祈祷によって平癒した功により、「神融禅師」の称号を賜る。
      神亀 2年  724   43才  行基が博山に登り、本地垂迹の由来を問う。
      天平 2年  730   49才  一切経を写経し、法隆寺に納める。(宮内庁図書館に現存)
      天平 9年  737   56才  全国に疱瘡が流行し、勅命により祈願を行い十一面法によってこれを鎮め、天皇より「大和尚位」を授けられ「泰澄」の尊称を賜る。
      天平宝字2年 758   77才  越知山に蟄居。
      神護景雲元年 767   86才  越知山の釈迦堂の仙窟に座禅を組んだまま遷化。
                                  「泰澄和尚伝記」(957年作?)  金沢文庫 蔵

※ ご住職のお話の中で、「福井弁で「土」のことを「べと」というが、これは「越」から来たもので、「ベトナム」を「越南(国)」と書くことからも明らかである」とのことでした。

【参考】
越知山 大谷寺 http://echizen-ohtanji.com/
特集 越知山:鯖江精機通信 No.7 平成24年1月30日発行 http://www.sabaeseiki.jp/pdf/tsushin.pdf
大谷寺 (越前町):ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%AF%BA_(%E8%B6%8A%E5%89%8D%E7%94%BA)
ふくい歴史百景 越知山(おちさん)・大谷寺(おおたんじ)  http://fukui100kei.dogaclip.com/kanko/Profile-100000100.html
泰澄大師 修行の霊峰 越知山 http://info.pref.fukui.lg.jp/hyakkei/010_view/pdf/061.pdf

12:30~13:12 昼食(オタイコヒルズ「レストラン」)  福井県丹生郡越前町下河原37-19-1

 湯どうふ定食は、湯豆腐以外に、おから、豆腐ハンバーグ、がんもどき、さらにデザートは豆腐アイスクリームと、豆腐づくしでした。

【参考】
オタイコヒルズ http://otaikohills.com/access.php

13:15~13:39 劔神社  福井県丹生郡越前町織田113-1

御祭神

 素盞嗚大神(すさのおのおおかみ)    氣比大神(けひのおおかみ)    忍熊王(おしくまのみこ)
 悠久の昔より遥か北に仰ぐ座ケ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、「劔大神」と称えられてきた。
 神功皇后摂政の頃、第14代仲哀天皇の第二皇子忍熊王は、劔大神の御神威を頂き当地方を無地治めることができたことを謝び、現在の地に社を建て、「劔大明神」と仰いできたことを社記は伝えている。
 奈良時代より祈願の霊場として、朝廷をはじめ多くの人々から厚い信仰をうけ、現在所蔵する梵鐘は、第49代光仁天皇の御奉納といわれている。中世以降、武将の崇敬も厚く、特に織田信長公は氏神と崇めて、格別の信仰をもって神領を寄進し神社を保護した。江戸時代の末には、伏見宮家の御祈願所と定められ、拝殿の御寄進を頂き熱い尊崇をうけて今日に至っている。
 越前国二の宮として、一の宮の気比神宮とともに福井県民はもとより、県外の方々の信仰も厚い神社である。

織田信長

 信長公の祖先は、劔神社の神官であったとされています。(詳しくは、劔神社の由緒書を参照願います)
 源平後退説になぞらえ、信長公は平氏であるといっていたとの説もある。

【参考】
越前二の宮 劔神社 http://tsurugi-jinja.jp/
劔神社 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE
福井県越前町にある織田氏ゆかりの劔神社 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_08_12.htm
劔神社・剣神社(福井):ぶらり寺社めぐり  http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-cyubu/tsurugi.html
阿波忌部氏と織田剣神社に隠された秘密 http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_210.html
剣神社 劔神社 (越前町織田):玄松子の記憶 http://www.genbu.net/data/etizen/turugi2_title.htm

13:54~14:03 葛野陣屋跡  福井県丹生郡越前町下糸生

葛野神社

 正徳元年(1711)完成。正面の長屋門は2間に18間で、10年後の享保5年に廃止となり、元の幕府直轄地として本保陣屋に引き継がれた。
 葛野神社は、陣屋跡地に建てられている。祭神として左座に、衣冠束帯極彩色の徳川吉宗公の木造が安置されている。
 頼方が14才から23才まで9年間領主であったので、若い領主の面影を写したものとなっている。
 また、相殿に祀られている吉宗公の厨子には、葵の紋がつけられている。

【参考】
葛野陣屋跡:新越前若狭城跡考 http://okhome.fc2web.com/castle/nyuu/kazura.html
越前・葛野陣屋:城郭放浪記 http://www.hb.pei.jp/shiro/echizen/kazurano-jinya/
葛野陣屋:ちえぞー!城行こまい http://www.geocities.jp/ikomaihokusin/fukui/kazurano.html
葛野陣屋:北陸の武将と城 http://www.geocities.jp/hokuriku1970/katuranojinnya.html
葛野陣屋:近江の城郭 http://www.oumi-castle.net/takoku/fukui/kazurano.html

13:54~14:03 朝日風月堂  福井県丹生郡越前町西田中8−34

【参考】
朝日風月堂 http://homepage2.nifty.com/asahiw/fuugetudou.htm

14:30~15:15 白山神社・龍生寺  福井県丹生郡越前町西田中9-43

桃井直詮

 直詮の祖父の直常は、足利尊氏の弟直義の侍大将として、応安4年(1371)越中松尾城で敗れた。
 孫の直詮(幼名 幸若丸)は越前丹生郡宝泉村に隠れ、やがて比叡山に上り学問に励んでいたが、「八嶋軍」という草子に節句をつけて語ったところこれが評判となり、後小松天皇(在位1382~1412)の叡聞に達し、宮中で語り叡感にあづかった。
 帝はさらに数帳の草子を与え、これに節句を付けよと命じたが、幸若丸は「自分は一国の守護の孫であるから、音曲を職業とするのは父祖の恥である」と断った。帝からは「末世に至るまで芸の家たらず」との綸旨を賜り、白山に登って神の霊験をこうむり、音曲を完成し再び参内して叡感にあずかった。
 幸若舞はもともと曲舞とか舞々とかよばれた芸能の一部で、やがて「幸若舞」が台頭してくると共に「幸若舞」と呼ばれるようになった。
 その御曲の優美さから戦国武将の多くが愛好したとされる。織田信長は特に「敦盛」(『人生五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり…』)を好んだ。徳川家康も幸若家三家に所領を与え、幕臣として取り立てている。
 龍生寺は桃井家の菩提寺で、白山神社は氏神である。 龍生寺の住職は戞山氏。
 なお、橋本左内の祖先は桃井氏であり、幕末京都で松平春嶽の腹心として活躍する際、桃井伊織の変名を使ったとされる。左内公園にある橋本家の墓所には、桃井家の墓も並んで建てられている。

【参考】
幸若諸家菩提寺 龍生寺:越前町オフィシャル観光ガイド えちぜんなび.com http://www.echizen-navi.com/static/00000000/003/00000508.html
幸若舞ゆかりの地を訪ねて:歴史探訪 http://okhome.fc2web.com/inves/fukui1/kouwaka.html
幸若舞 http://rittu5678.seesaa.net/
幸若舞家元「幸若舞太夫家」一族 http://www.k3.dion.ne.jp/~rittu/kouwakamai1.html
越前町に蝉丸の墓?:教えて県民くん:日刊県民福井から http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/oshiete/list/CK2014062302000176.html
    織田信長が好んで舞った幸若(こうわか)舞を伝える幸若家の菩提(ぼだい)寺「龍生寺」(西田中)が昔、墓の近くにあったことから、「幸若家が蝉丸を祭るために造ったのではないか」と持論を語った。

15:19~16:06 気比神社  福井県丹生郡越前町気比庄1-19

御祭神

 仲哀天皇(人皇第14代)
 配祀  神功皇后    伊奢沙別大神(気比大神)    日本武尊    他

由緒

 気比神社は、敦賀湊に御鎮座の越前国一宮気比神宮の旧荘園気比庄にある気比神宮の勧請社です。
 その創祁は「気比神社記」に、白河天皇の御代、永保2年(1082)と記されています。古代から気比神社や気比庄が存在したことは、区内に古代条里制の遺構が見られることからも確認できます。
 旧指定村社で、江戸中期は近郷十四ケ村の総社。さらに遡れば旧朝倉氏氏神で、代々角鹿国造家が奉仕してきた。
 なお平成21年には、越前松平家旧邸内社(旧福井城内祠)の稲荷神他四柱が合祀された。
 昭和40年までは、社殿が敦賀の方を遥拝するかたちで建てられていた。
 越前朝倉氏は、代々越知山大谷寺を保護し参詣してきたが、(途中に気比庄に休憩所があった)朝倉義景の側室が俄かに産気づき、休憩所で男の子を産んだことから、朝倉氏の氏神として宮社が再興され社領も多く寄進されたといわれている。
 羽柴秀吉、結城秀康からも、厚い保護を受けていたとされる。

松平春嶽公の「真雪草子」に書かれている稲荷大明神

 「二の丸住居(御座所という)の庭に一社あり、稲荷大明神を祀る二社也。一ツハ延喜稲荷大明神。一ツハ正一位稲荷大明神とあり。延喜は重富公即隆徳公の御勧請也。正一位の方ハ秀康公の御勧請なりという。熊ケ谷小兵衛の物語りより。」   (注)重富公は12代藩主、徳川宗尹三男

宮司 角鹿氏

 現在の宮司の角鹿尚計氏は、国造家の第63代で、気比神社13代宮司とされている。

梵鐘

 神社にあるのは珍しいとされる。
 これは元和年間(1620年代)、宮司の彦九郎が修験道を学び、社僧となり萬性院と号した。その後江戸時代には天台宗真盛宗本山派に属し、角鹿山萬性院気比神社と称するようになったことに由来する。
 神社以外にも僧院があり、尼寺も存在していた。

【参考】
気比神社:越八百万の神 日本の神じゃ・寺院検索サイト http://yaokami.jp/1181655/
特集 気比神社:鯖江精機通信 No.1 平成20年6月13日発行 http://www.sabaeseiki.jp/pdf/tsushin.pdf
    『 江戸初期に入ると、気比神社も復興の道を歩み始める。角鹿姓の島家から分家した彦九郎が気比神社を継ぐと、修験道を学んで社僧となり、角鹿山萬性院氣比寺別当氣比大明神と称するようになった。神社でありながら神社に奉仕するお寺となり、このかたちは、明治まで続く。今でも境内に梵鐘があるのは、このためである。』

16:11~16:26 胞衣(えな)塚(青山氏宅内)  福井県丹生郡越前町気比庄39−27

青山九右衛門家の胞衣塚

 朝倉義景の男の子(一説には愛王丸)のものとされる標石が現存する。

【参考】
気比神社:鯖江精機通信 No.1 平成20年6月13日発行 http://www.sabaeseiki.jp/pdf/tsushin.pdf
    『…とりわけ朝倉義景には手厚い保護を受けた。朝倉義景がなぜ、気比庄地区を手厚く保護したのか。その理由を伝える、面白い伝説が残されている。
 朝倉義景の側室が、越知山へお参りしたとき気比庄で産気づいた。その時、気比庄にいた多津さんという女性がお産を助け、世継ぎである愛王丸が無事誕生したという。そこで朝倉氏が、褒美をあげるので何がいいかと尋ねたところ、「気比庄には昔から山がなく、薪や隅に困っているので、山が欲しい」と答えた。西を見ると、カラスが飛んでいる山があったので、その山を与えた。こうして気比庄は、山を手に入れることができたのである。
 神社境内には、多津さんの功績をたたえて碑が建てられている。また、愛王丸の生まれた屋敷には、胞衣の後として標石が残っている。そして、この時手に入れたとされる山は、今も気比庄の区有地として残っている。旧朝日町下糸生の「烏ケ岳」がそれである。』

16:55 公民館に帰着


【参考文献】  みなと塾 田島氏作成
    清水町史
朝日町史
幸若舞あれこれ / 幸若の会(編)
越前国古今名蹟考 / 角鹿尚計解説資料
真雪草子 / 松平春嶽

v1.1 2014.09.17 写真「P1015069.jpg(上野山 乗泉寺1枚目)」「P1015149.jpg(葛野陣屋跡3枚目)」「P1015188.jpg(胞衣塚4枚目)」を何回 ftp しても画像が壊れるようです。原因が分かりません。
※ このページは「Highslide.js」を利用させていただいています。